ぼうけんの記録

鹿児島に住む中で「鹿児島は情報発信能力が低い」と感じることが多く、地元の資源をうまく生かせていないことにもどかしい気持ちを持っています。情報発信能力を身につけるために「まずは自分のことを発信しよう」と思いブログを始めました。

久しぶりに孫扱いされてきた話。

祖父母宅に1泊してきました〜!

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約1年ぶり。

かざり語では、「ばあちゃん家」です。
じいちゃんもばあちゃんも生きてるのに、「ばあちゃん家」と呼んでしまうのは、ばあちゃんの方が話しやすいからでしょうな。
 
父方の祖父母は、85と86歳です。
(遊んでいる途中で年齢の話になり、「私アラナイの人と一緒に遊んでんのか」とちょっとびっくりしました)
 
2人はそれぞれ手術したり、事故にあったりしてますが、元気です!
自分の脚で歩くし、腰も曲がってないし。
頭もしっかりしているし、よく笑うし、食べるし。
 
 
じいちゃんはちょっと耳が遠いけど、ばあちゃん経由だと簡単に通じる。
私も大きめの声で話しているつもりで、声の大きさはばあちゃんとそんなに変わらないはずなんだけど、なぜかばあちゃんの言うことは1回でじいちゃんの耳に届くんだよな〜。
不思議さを感じるとともに、「すてきだな〜」と。
 
じいちゃんの耳は、ばあちゃんの声や話し方を敏感にキャッチするようになってるのかもね。
 
 
そういう私もたま〜に「かざりちゃん」って呼ぶ彼の声に敏感に反応するんだけどね。
それと似てるかな、近いかな。
そういうもんかな。
ありません?そういうの。
 
 
…あるよね?
好きな人の姿はすぐ見つけちゃうみたいな、ありますよね?
 
 
久しぶりに会うじいちゃんとばあちゃん。
見た目は変わらず。
 
今回は新しくできた「イオンタウン姶良」にいきました。
(ばあちゃん家は蒲生にあります)
 
運転は元タクシー運転手の85歳のじいちゃんが担当。
何年か前、私が「運転しようか?」と提案するも、「危ない」と一言。
「85歳が運転している方が危ないやろ」と思いつつ、運転キャリアはじいちゃんが圧倒的に上なので、運転はじいちゃん任せることに決めてます。
(ちなみに、これまで無事故らしいです)
 
 
年齢の割にって言ったら失礼かもしれないけど、2人はいろんな場面でモダンです。
 
靴屋さんでは一緒に靴を選んでくれるし(買ってもらった)、お茶休憩の時は、フードコートでじいちゃんはアイスコーヒ、ばあちゃんは私と一緒にタピオカドリンクを飲みました。
 
歩くスピードはゆっくりだけど、1F~3F全部のエリアを一緒に回りました。
2人とも好奇心旺盛で、わりとなんでも楽しんでいる(ように見えます)
 
 
2人は精神的にもモダンです。
戦争経験者なので、ときどき当時の話をしてくれます。
14歳の時に満州に働きに行ったことや、食べ物がなかったことなど。
 
私は「うんうん」と返事をしつつも、顔はわかったようなわからないような表情をしていて、ばあちゃんはそんな時にきまって「生きている時代が違うから」と言ってくれます。
 
理解したいとは思うけど、実際に経験している人と私とでは、同じ光景は描けない。
私のは想像だけど、ばあちゃんたちのは「記憶」だもんな。
そこはやっぱり交われない。
 
そこに申し訳なさを感じる私のことを知ってか知らずか、ばあちゃんは伝わらないことに対する諦めというより、「仕方ないさ」と優しく接してくれる。
よかばあちゃんです。
 
 
 
じいちゃんは私のiPhoneに興味深々です。
会うたび「見せっみやい」と言って触るし、何かしらボタンを押そうとする。
そんで絶対尋ねてくるのが「どひこや?」と値段の話し。
 
何度もしているそのやり取りにちょっとうんざりしている私は、適当に「7,8万」と答える。
(うんざりの理由は、高い値段の物を母に買ってもらってるくせに、自分の物のように扱っている恥ずかしさがあるから。)
 
「そげんすんのか~」と驚くじいちゃん。
ちゃんと調べて答えた方がよかったかなとちょっと後悔して、今調べたら

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 あながち間違っていなくてちょっと安心。
 多分じいちゃんはiPhoneが欲しいんだろうな。
 
 
 
孫として過ごした約24時間はとても安心して楽しかったです。
10時台に布団に入るのも久しぶりでよかった。
(寝付けず12時ごろまで起きてたけど)
 
 
24時間のなかで「あぁ、私は2人にとって間違いなく特別な存在で、大事にしたい存在なんだな」って実感してにやけたのは、朝ご飯のお皿にのった苺とマスカットとりんごが2人より大分多いことに気づいた瞬間です!
 
 
 
就職祝いとともに「勤め、きばれよ」とエールももらいました!
これから大人になっていく私だけど、2人と会えばいつでも孫に戻れる。
 
 
 
その幸せに感謝して、今日もとてもよい1日でしたっ。
 
 
 
 
 
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よーさんブログ。
そろそろよーさんとの出会いを書こうかな。
 
 
 
 
 

気づきました!「何にしても方法はひとつじゃない」

「おまえいい加減にしろよ」ってくらいまだまだ学生の身分にしがみついていたいと思っている私。

でも大学生としてやりたいことや、おもしろいことはけっこうやったつもりで(欲を言えばキリがないしな)いい意味でやりたい放題でした。

だから、今の心情をもっと丁寧に表現するとこんな感じ。
学生という身分は魅力的だけど、その中でできそうなことや、やりたいことはある程度できたなー。
新しい自分としてこれからは何ができるかなー。
わくわくっ。不安。わくわくっ。ふあん。わくふあ。

あはっ。
(とりあえず笑っとこう!に落ち着く)



学生ブランドいいな、とは思いつつ、神さまが「もう1年大学生していいよチケット」をくれたとしても、「や、次の進路決まってるし、わりと楽しめたんで大丈夫でっせ」ってたぶん言う。

そんで、社会人生活を送る中でゲフゲフなった時に、「神さま、あのチケットくださ」「は?」「大学生していいよチケッ」「は?」「ごめんなさい、がんばります」ってなるんでしょうね〜。


手の届く範囲の行きたいところには行ったし、会いたい人にも会いに行った。
・Taylor Swiftの東京ドームコンサート
乙武さんや山崎亮さん、橋下徹さんの講演会
清水寺、鳥羽伏見神社
ユニクロのアルバイト
などなどなどなど

1年生の時に参加したインターンのおかげで、割と早い時期から社会人の方と接することもできました。
ありがとうございます!!

そんな日々を過ごす中で自分のアタマで考えて、導き出せた大事なある言葉をここに記したいと思います!

未来の自分が迷ったときにここで立ち止まれるように。
(結局は自分のためになるのさっ)
(でも細かい部分はうろ覚えだぜ)




方法はひとつじゃない、いくらでも、何通りもある

ある日、クイズ番組を見ていて思ったことです。
東大生が出ているクイズ番組でした。
「この問題が解けたら、IQ100!」みたいなクイズが出て、IQ90~120の問題がランダムに出題されます。
内容は答えをパッと出すというよりは、思考させるような問題が多かったはず。
脳トレみたいな感じか。

私は出題される問題に熱心に取り組むわけでもなく、ご飯を食べながら何気なく見ていました。
そしたらちょっと考えたら答えがわかりそうな問題が出てきて、箸を止めました。

案の定、ちょっと考えたらひとつの答えが浮かんできて、「お!解けた?」と思いつつ、考えはそこで終わらず「や、こうか?」とふたつめの思考が出てきました。

結局、私の考えた答えは外れて、テレビの中の東大生は正解していましたが。


その時の感覚は今も妙に覚えていて、「頭がいい人ってひとつの方法を教え思いついても考え続けるんだ!」「頭がいいって答えに辿り着く方法を瞬時にたくさん考えられるってことなのかも!」と勝手に頭がいいとは?について自分なりに定義付けしました。

後に、自分なりの定義が情報処理が早いという言葉で簡単に表現できるのを知って「自分頭悪いな〜」と鼻で笑ったのはここだけの話です。


でもこの感覚を、自分ではわりと大切にしたいと思っています!
人から教わって初めてわかることもあるけど、あーだこうだ悶えたり、「なにを考えてんのやら」と呆れながらも、自分で考えてなにかしら答えを導き出すのはけっこう重要だと思います!
社会人になっても!



方法はいくらでもある、と自分の中で確信できてからは、いい意味で楽観的になりました。

一度決めた決断を変えたいと思った時は「方法はひとつじゃないから」と切り替えやすくなったり、「これ無理そうだ」と暗雲が立ち込めた時は新しい方法を探したり。


小説家という夢を叶える方法もひとつじゃないから、いろんな世界を見ながらたくさん回り道しようと思えた。(案外近道かもしれないけど)


今の彼と付き合い続けるというか、「なるべく永く楽しく一緒にいる方法」もひとつじゃないことが最近わかりました。(納得させられたが適切な表現)

自分のアタマで考えることは大事だけど、それで頭でっかちになっては人を遠ざけるでしょう。

私の判断は彼の視点からは「えー、やー、ほんと?それほんと?」と見えることもあるようででで。

私は意地っ張りでひねくれてるから「ほんと!まちがいなく!!」みたいな態度を取ってしまうのだけど、ちょっと時間が経つと、「あやつのいうことも一理あるな(ちっ)」となり、(情が移っているからだともいえるけど)お互いにとって良さ気な落とし所を模索し、見つけるのです。

いつまでも柔軟でありたいものです。


頭でっかちだと、多分ただ黙々と文章だけ書いていたかも。
小説家になるためには、文章しかない!!!みたいな感じ。

でもそれって多分私がおもしろくないし、私がおもしろくないと、私の身から出た言葉たちもおもしろくないから、ひとまずは今のままでいいんじゃないかな。

人生を楽しくする方法もひとつじゃないし、悪くなる方法もひとつじゃない。
人生は複雑だな〜。



はじめ、この記事のタイトルは「自分のアタマで考えて導き出した答え(学生編)」にしてたのですが、ちょっと書き通せないと思い、断念。

自分のアタマで考えて導き出せた答えは、自分の人生にとってすごい大切なはず!
でもそれにこだわりすぎたり、その考えだけに固まったら周りの人を遠ざけちゃうかもよ!

みたいなことを書きたかったのですが、ちょっと断念。


「断念した記事だったら公開すんなや!」ってわたしも思うのですが、今の自分的重要課題が毎日文章を書いて公開するなので、駄作でも愚作でも人目に晒します!

だってアクセス数が伸びる方がやる気がでるんだもん。
自分でブログの記事設定のところ見て、「けっこう書いたな〜」って自分を褒めるの気持ちいいんだもん。


しかも、淡々とやってる内に、いつのまにかできるようになることもあると思うし。
早く文章が書けるようになったり、一定の質を保ち続けられたり、高められたり。

もっとやるぞー!
晒し者じゃー!




私が大学4年間、口に出し続けた変わらない夢について。

注意:はあちゅうさんの『半径5センチメートルの野望』のせいで、なんか、高まってます!!!
 

 

自分で書いた文章を何年後かに見ると、ハッとさせられたり、励まされたりするもので。

最近は、去年の10-4月ごろまで書いていた日記を読み返すことが増えました。
 
今の私が書いた文章も、もしかしたら将来の自分を助けるかもしれない。
励ましになるのかもしれない。
と思うと、おのずと筆は進むもので(最近はタイピングやフリック入力だから、指が進むか)
 
学生生活をふりかえると、馬鹿みたいに一生懸命だった日々もあれば、恐ろしいくらいに愚かで情けない日々もありました。
 
でもその中でも変わらなかったことがあり、それは「作家、小説家になりたいという夢を口から出し続けること」でした。
 
高校2年生の時に「小説家いいじゃん!」と急に思い立ち、「将来の夢は小説家だ!」と志しました。
 
大学進学のための作文(指定校推薦だったため、800字作文の提出と面接が私にとっての大学試験でした)にも、「将来の夢は小説家です」と書き、「大学に入学することで、様々な人と出会い、経験を積むことで小説の材料を集められると思います」と書いた記憶があります。
(まったくそのままの表現は覚えてないけど、内容はおおむね合ってるはず)
 
自分で掲げた夢に救われたこと、数万回。(言いすぎか)
一時期は、勝手に押しつぶされそうになり、手放しかけたけど、やっぱり諦めきれなくて、夢を見た。
夢を見る時は、叶うとか叶わないじゃなくて、ただ見る。
人によっては夢を描くという表現をするでしょうが、私は夢を「見る」
 
 
小さな一戸建てに住んで、裏庭には葉物野菜が育つ小さな畑。
飼っているしっぽの長い猫は知り合いから引き取った猫。
お家にきた時は、まだ小さくて私が離れるとニャーニャー鳴いていたのに、今では我が物顔で家中を歩き回り、たまに庭でカラスと戦っている。
私はいつものように、お気に入りの社長椅子に体育座りしながらパソコンと向き合っている。
あーでもないこーでもないと生みの苦しみに悶えているディスプレイの先には、気持ちよさそうに寝ている彼。(絶対口があいてる)
「あほ顔」と思いつつ、ほっとして、ふわっとあったかい何かに包まれたような感覚になって、「これが幸せか」ってなぜかちょっと泣きたくなる。
目に涙が溜まるほど文章が浮かぶ私は、思いついたようにカタカタとキーボードを打つ。
 
 
 
あー。理想。
いい風に書きすぎてるけど、間違いなく理想。
 
きっと、カタカタキーボード打ってたら、寝ている奴に腹たってきて「こっちが苦しんでいる時に口を開けて寝ているとは何事か!」と立ち上がり、クッションでも投げつけるのでしょうね。
 次の台詞は「プリン!ハーゲンダッツ!ガトーショコラ!」でしょうね。
幸せそう。(少なくとも私は幸せ)(ちゃんと謝ろう)
 
 
くそー。
後何年かかるんだ。
 
 
結局、大学在学中に小説家デビューすることはなく、本を出すこともなかった。
ほら吹き。
オオカミ少女。(少女ではない)
オオカミくそ女です。
もはや、くそ女です。
ただの、うそつき口だけくそ女、です。
 
あああああああ。
でもこの4年間、頭の片隅には「小説家」という夢があって、楽しい時も「小説のネタにしよっ」、辛い時も「絶対小説にしてやる」と思って過ごしました。
 
高校2年生の時の私に比べたら、今の私は確実に、着々と小説家に近づいているとは思います。
思うけど、それじゃだめ。
 
 
書き続けて、形にしなきゃ。
幸いにも「小説家になりたい」と口にした女子学生に「なれるわけねえだろ」「働け」「馬鹿か」という人はいませんでした。
本気にされてないのか、眼中にもないのか、本当に応援しているのか。
人の心はわかりません。
 
でもおかげさまで、相も変わらず同じ夢を持ち続けています。
うー。
まあ、人から「お前には無理」って言われて「そうですよね、ごめんなさい」なんて言わないけれど。
 
 
人生のどんな場面でも、「小説家になるから」と思えば頑張れたし、何事も楽しめた。
いつか使うかもと思ってなんでも記録した。
ノート、メモ、プリント、ほとんど捨てずに持ってる。
 
 
 
大学は無事4年間で卒業できたけど、夢までは卒業できなかったから、もっともっと追いかけていくんだろうな。
「子どもの妄想でした」で終わらせたら、高校2年生の私がかわいそうだし、申し訳ない。
 
この先タイムマシーンが発明されて、抽選で、あの頃の自分と話せるチケットが当たって、過去の自分と会った時に「あなたが描いた未来は一生来ませんでした」なんて言えない。
「一生懸命やったけどダメだったよ」も言えない。
「みんな応援してくれたけど、運がなかった」も言えない。
「いいところまでいったけど、選ばれなかったよ」も言えない。
 
 
 
 
「なんとか試行錯誤しながら、まだ夢を追いかけてるよ」
「あなたが描いた未来を今も大切に追いかけているよ」は言える。ぎりぎり。
 
 
ほんとは
「あなたが描いた夢叶えちゃったよ。そしたらもっとやりたいことがでてきて今はそれに向かってがんばってるよ。だから未来を信じてがんばれ」って言いたい。
 
 
タイムマシーンは発明されないし、過去の自分に囚われることもないけど、4年間口に出しまくって、潜在意識にも多分刷り込まれてて、望む未来のために目の前のことを一生懸命やろうって思うから、やっぱりやる。
 
 
なっがーーーーーーーーい人生の中のたった4年間だけど、大した努力もしていないけれど、18-22歳の4年間ずっと、同じことを口に出し続けた自分のことは認める。
実力は伴わないけど、気持ちは本気っぽいぞ、と。
 
 
これまでの自分がいて、今の自分がいるから、私は私に返してあげないと。
あの頃描いた未来を手に入れてあげないと。
今の私が、未来の私を創るから、未来のわくわくは今の私次第だから。
 
 
この選択は、未来のわくわくを増加させると信じるしかない。
不安だけど。
でも大丈夫!
 
 
実力が伴わないなら、身に着けるしかない。
・書いたり書かなかったりじゃなくて、一定のペースで書き続けられる
・ある程度の分量と質を保って、文章を量産できる
・深く自分の内側に潜る
 
 
今後も口に出し続けて、書き続ける。
やる!
 
 
 
 
 
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よーさんも叶えたいことがあるのかな?
 
 
 

おかあさん自慢。

「とうとう大学卒業か―。」とちょっと憂いているモラトリアム人間です。

 

こういう時の私は脳みそが言葉で埋まります。

急に頭のなかでナレーションが流れ、目に映る日常がちょっとスローモーションになって、映画を見ているような気分になります。

目線がカメラのレンズになり、日常をキリトル。

 

卒業を控えた人間というのはこうも感傷的になるんすねー。

(え?私だけですか、そうですかっ)

 

こんな感傷的な今の私だから書けることはなにかなー?と考え、思いつきました!

おかあさん自慢を思いつきました!

 

以前から、「子を育てる側の視点で語られる子育て〇〇はよく聞くけど、自分がどう育てられたか、育ててもらったかはあまり聞かないなー。聞きたいなー。話したいなー」とぼんやり思っていました。

いつかのfacebookで、コメタクのさくらさんが新潟で「おばあちゃん自慢会」だったかな?をしていて、「いいなー。すてきやー。」と羨ましがっておりました。

 

私の意図する〇〇自慢と違うかもしれないけれど、自分のおばあちゃんを自慢するっていいなー。私も自慢したいぃぃい。と悶えておりました。

 

重ねて、社会人になると「おかあさん、おかあさん」と頼るだけでなく、こちらからどーんと!支えにゃならんな、とも思うわけです。

扶養からも外れるし。

 

そして、大学卒業を控えた今だからこそ、保育園から大学4年生までいろんな面で助けてくれた、ここまで育ててくれた母にとても大きな感謝をしています。

いつも感謝してるけど、卒業を控えている今だからこそわきあがる感情があります。

 

学生として、ぎりぎり子どもとして今こそやります!

おかあさん自慢!のはじまりはじまりー

 

 

私はおかあさんのことを、「おかあさん」と呼びます。

たまーに名前で「〇〇さん」と呼ぶこともありますが、たいがいはおかあさん。

お母さんじゃなくて、おかーさんじゃなくて、おかあさんです。

 

おかあさんと私は約30歳離れています。

私は一人っ子で、母子家庭なので、母一人子一人です。

(お父さんとはたまに連絡します。祖父母は4人とも生きてて元気です。みんな自分の足で歩きます。)

 

おかあさんはお父さんと別れた後、私を連れて鹿屋の実家に住み始めました。

 

誰しもが通るであろう思春期の時期は激しく衝突しました。

中学2-3年の頃です。

まー、連日の喧嘩ですね。エキサイトすると掴みあいでした。

髪をひっぱったり、ほっぺを叩かれたり、びんたもね、叩かれました。

私もやりかえして、ひどい時は物を投げたり。

22歳になって振り返ると、何がそんなに嫌だったのか、感情がむき出しになったのか思い出せないけれど。

 

でもどんなに喧嘩をしても、私が無視を決めこんで実行しても、必ずご飯を作ってくれました。

服を洗濯してくれました。

こっちはムカついてイライラしていて、一緒にいたくないから「ご飯いらない」って言ってるのに、毎回「食べなさい」って絶対にテーブルからさげなかったなー。

 

喧嘩してるのに、食べるご飯は絶対おいしくて、おかあさんもムカムカしてるはずで、本当はご飯なんか作りたくないだろうに、出てくるご飯は絶対おいしかったです。

おかずが減ることはなかったし、お米がべちゃべちゃとか、かたすぎることもなかった。

食べ終われば皿も洗ってくれました。

 

この前の日曜日に、卒業式の着付けのために、予約した美容院に着物を持って行きました。

成人式もそうだったけど、美容室のおばちゃんは元気で、「〇〇おめでとうございます」って言ってくれて、自分の子どもとか、孫の話をしてくれるのです。

「私の子どももねー」とおばちゃんが話すと、「うちもですよ」とおかあさんがこたえる。

ちょっとした恥ずかしさと、一瞬居心地の悪さを感じるけど、我が子の話をする女性はすごい優しい雰囲気を纏うんだよなー。

ほんで笑いながら、「大変でした」って言うんだよなー。

その時におかあさんが言っていたのが、「子どもと喧嘩をして、自分も腹がたって、ご飯も作らんどこかいね〜と思うけど、母親としてするべきことはちゃんとして。そしたら大人になった時にわかってくれるものですよ」


あー、もうこういう時、私ほんと、この人の子どもに産まれてよかったなーと思います。 

ちょーいい女なんです、うちの母。

見た目も年齢のわりにきれいだし、仕事をしていてあまり来てくれなかったけど、小学生の時の授業参観の時は、鼻が高かったです。笑

 

高校から実家を出て、大学に入ってからも鹿児島市内で暮らして、全然鹿屋に帰らなくても「実家に帰ってきなさーい」なんて言わないし、でもこっちが「帰ろうかな」って言うと「いつでもいいよ」って言うし。


大学進学や就職で県外にでようかな、アピールをすると、「九州にはいてほしいけどねえ」と本音を混ぜつつ「外国にでも住めば?」とか急に提案してきたりもします。笑


私はこれまで受験をしたことがなく(基本的に推薦でした)、勉強してこなかったのを、他の人と比べてコンプレックスに感じていたこともありました。

「自分は学校の勉強はあまりしなかったけど、いろんなことを考えて、見て、経験してきたし!」と思いつつ、「受験勉強しとけばよかったかなあ」とちょっといじける事もありました。

(目指す学校があったわけではないのに)


なんで勉強しなかったのか?と考えると、

・平均的な点数は取れていた

・偏差値が高い学校を目指す環境にいなかった

・スポーツに夢中だった

などあるのですが、「これだ!」と思ったのが、母の口から「勉強しなさい」と言われたことがなかったのです。


圧倒的に点数が悪いわけでもないから、大して心配もしてなかったのでしょうけど。(30点のテストを持って帰った時も叱られなかったけど)


覚えているのはいつかの子どもの頃に、夏休みだったかな?

忍たま乱太郎のアニメじゃなくて舞台がテレビでやっていて、そのなかで「0点チャンピオン」ていう歌が流れてたんです。


お勉強ばかりがんばってもダメなのさ
逆上がりができなくちゃけっこう格好悪い

ある時、どんな話の流れでそうなったのかは覚えてませんが母が「忍たま乱太郎0点チャンピオンっていう歌があるでしょ、勉強だけが大切なわけじゃないのよ」と言ってくれたのを覚えています。

都合のいい私の頭は「好きなことを楽しんでやればいいのか」と変換して、今も勝手にその言葉に救われたりもしています。

(勉強していれば、なおよかったとも思うけど)

大学に入ってからは「正解がわからないながらも進まなきゃならない状況がある」ということを知ってから、ますます母の言葉の意味や深さ、重みを実感する日々です。

どんな時も母として堂々としてくれていたおかげで、たくさん救われました。

もう一度。
うちの母は、いい女です。

なんかまだまだ書きたいなー。
ひとまず。


明日の卒業式はお礼の手紙を渡します。
泣くで、たぶん。笑

私も大学生、お疲れ様でしたっ!

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ご報告いたします。よほっ。

お久しぶりです!

今日の鹿児島はちょっと暖かったですね。

灯油が切れてストーブが使えない木造の我が家は寒いので、毛布を被っていますが。

(窓全部閉めてるのに寒いんだよな~)

 

以前の記事で「卒業やぶぁあぁぁっい!!」と情けなく書き殴りましたが、無事、卒業決定いたしました☆

 

ありがとうございます。ありがとうございます!

ありがとうございます!!!

 

明後日は、堂々と袴を着れます!もう美容室に持っていきました!

当日は6:30に美容室です!卒業式は9時からです!

着付け終わるの7:30みたいです!

はい!

 

やー、終わります。大学生活が。

月並みな言葉ですが、あっという間の4年間でした。

特に20代に入ってからが。

 

振り返るとほんとぉぉぉぉおにいろぉぉぉおおぉんなことがあり、ひとつひとつ思い出すと全然あっという間ではないのですが、「とうとう卒業か」という感じです。

高校までの学校生活と違って、毎日通ったわけでもなく、友達や先輩といつも一緒というわけではなかったので、「別れが悲しい」という感情はあまりないですが(会うべき人とはタイミングが来れば会うだろうし)16年間続いた学校生活が終わると考えると、社会人になる不安やら、さみしさに似た感情がわきます。

 

私は4歳ぐらいから保育園に通ったので、それも合わせると18年か。

ながっ!

生まれた子が高校生終わるじゃん。はやっ!

 

やー、いろいろありましたし、やりました。

長期インターンに始まり、考古学、アルバイト、場づくり、タイ、黒島、フリーペーパー作成、ほいほいほい。

 

ぜーんぶやってよかったです。

無駄なことはひとつもなかった。

 

馬鹿みたいに気分が落ちて家からでない1ヶ月も。

精一杯がんばった8ヶ月も。

よくわからないながら染まった1年半も。

突発的にはじめた6ヶ月も。

今も続いている約5か月も。

 

これからもこうやって生きていくのかなー。

生きていくのでしょうねえ。

 

さみしさや不安の理由は

・学生じゃなくなること

・社会人として生きていけるのか

・自分で稼いで食べていけるか

などなど。

卒業を控える多くの4年生が感じるであろうことです。

 

さみしさも不安もあるけれど、人生は考え方次第なので、見方を変えれば、やっと福島花咲里として生きていけるのです。

 

今後の選択しだいでは、「〇〇の福島花咲里です」と名乗ることもあるだろうけど、1人の人間として生きていけるようになるし、生きていかなきゃならんし。

 

でも今までもそうだったように、これからもいろんな人と出会って話をして、助けて助けられて生きていくんだと思います。

 

よくもわるくも私はわたしで、不安も期待も全部たのしんで生きていきます。

きっと楽しいし。

そうそう。

楽しめるだけの強さは身に着けたつもりだし。

 

緊張でお腹がいたくなって、何度も掌に人を書いて飲むんだろうけど(笑)

 

ふふっ。

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 大学の梅の花。たぶん梅。

 

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春の陽気にうかれているよーさんブログ。

maeyo5296.hatenablog.com

 

 

最近お話した人たちの「自己ブランディング」について。

最近呑んだ、話した社会人に共通していたことがあって、「おもろいー。ありがたいー。」と思ったのでシェアします!

 

それはみなさん意識して「自己ブランディングしているということ。

(もしかしたらみんな当たり前にしていることかもしれないけれど)

 

話し方、立ち居振る舞い、自己表現などなど。至るところで感じました。

「戦略的に生きている感じ」がしてかっこよいです。

 

以前、パートナーが事あるごとに「ブランディングブランディング」と口に出していた時期があり、名前だけは知っていました。

あんまり言うものだから(本人にそのつもりはないでしょうが)「重要なキーワードっぽいな」「内容をきちんと知っていた方が良さそうだな」と思いつつも、興味がないと調べる気も起きない私でございました。

 

そんなある日、マルヤガーデンズの本屋をぶらぶら歩いていると、「ブランドなんたら」という本が目に留まり、「あ!ブランディングってブランドをingするってこと!?」とはっとしました。

(無知すぎる) 

 

ブランディングとは?(wikipediaより)

顧客の視点から発想し、ブランドに対する共感や信頼など顧客にとっての価値を高めていく企業と組織のマーケティング戦略のひとつ。ブランドとして認知されていないものをブランドへと育て上げる、あるいはブランド構成要素を強化し活性・維持管理していくこと。またその手法。

 

wikiでは自己ブランディングではなく、セルフブランディングという言葉で出てきました。

 

セルフブランディングとは?wikipediaより)

企業や組織に所属しない「個人」が、自らをメディア化し、自らの力でプロモーションすること。

 

よく耳にする、個人のメディア化やセルフプロデュースと考えや意味は同じかな。

自分で自分を演出することだと思われます。

 

一概に自己ブランディングとはいっても、それぞれやり方は違っていて、話しを聞いていて「自分をどう見せたいか、それって〇〇を狙っているから」みたいな話がたくさん聞けて、すごいおもしろかったです!

「人が変わればブランディングのやり方もそら変わるわな~」と納得した次第でございます!

 

話しを聞いて、理解できた範囲で私が「おもしろいなー。真似したいなー。」と思って、後々頭で考えて、自分なりに解釈した自己ブランディングを3つ紹介します!

(見当違いなことを書いてたらごめんなさい)

 

1.立ち居振る舞いによって、エセ人が寄ってこないようにする。

人前に出る仕事をしていると、良くも悪くも多くの人が近づいてくるみたいです。

近い熱量で話ができたり、具体的なビジョンが描けていたり、本気度が高い人と接するのはよいです。

話していてすごくいい刺激になるし、モチベーションも上がる。

 

時たま「自分も同じこと考えてるんすよー」「そういうのってどうしたらできるんですか」「自分のとこにもきてくださいよ」みたいな、エセっぽい人も出てくる。

少なからず自分がそうだった時期もあるから、エセ人たちが何を考えている全くわからないわけではないです。

 

でも最近の自分がそうであるように、やりたいことがたくさん浮かんで、ちょっと背伸びしたらぜんぶできそうで、あれもこれもって手一杯になってくると、そういう人と話す時間がもったいなく思えてくる。

 

ほんと失礼なんですけど、めんどくさくなってくる(私はまだまだそんなレベルじゃないけど)。

相手するのもめんどくさいし、だからといって避けるのもめんどくさい。

だから、寄ってこないようにする。

 

立ち居振る舞いによって、自己ブランディングして、はじめからそういう人が近づけないような空気、オーラをだす。

意味もなく怖がられるんじゃなくて、ストイックさを持ったり、厳しめな発言をする。

そしてそこをすり抜けたり、乗り越えた人とだけ話をする。

だって自分は本気だから

 

自己ブランディングは、マーケティングの役割も果たしてくれるのだ。

 

 

2.自分を信じて、あえてこうする。

言い方が強すぎる人や、乱暴すぎる人っています。

お話した社会人の中にも「部下に対する言い方をもっと気を付けたい」と仰る方もいました。

私も過度にきつい言葉を投げたり、表現を使うことがあります。ごめんねと思いながら。ほんとはすきなのよ。

 

最近は「わー、ほんとうにそんな話し方するんですね!!」という方と出会いました。

なんというか、口が悪い。(笑)

初対面なのに個室で2人で話すことになり、怯えつつも私の方が扉に近かったので、「いざとなったら走ろう!!」と決意していました。

 

そんな決意が実行に移されることはなく、話し終わってみれば、私はその人のことをすごく信頼できたし、全然嫌いになれないし、むしろ「その話し方変えないでください!」と心から思いました。

緊張してたのでしょうね、ワタシ。

はっきりとは覚えてませんが、こちらがある質問をしたら「意図してこういう話し方をしている」みたいな返答がありました。

 

「この話し方で出会える人と出会っていく」

「何年かしてまずいと思ったら変える」

私「あ!変えられるんだ!」

 

またまた失礼な話なんですけど、すごい人ほど素顔と異なることが多いです!

怖い人ほど優しかったり、おとなしそうな子ほどドギツイこと考えてたり。

私の眼が曇ってるから素顔を見透かせないことも多々あるでしょうが、間合いに入らせてもらうと、新しすぎる一面が見えます。

そういうのすごいすきです。

楽しいです!!!もっと見たい!知りたい!

 

ターゲットが変われば戦略が変わるように、出会いたい人が変われば自己ブランディングのやり方も変わるのだ。

 

 3.キャラもあるけど、ちょっと演じる

真っ白を漆黒に塗り変えるにはたくさんの色を重ねる必要があって、エネルギーもかかるし、時間もかかる。

だからグレーを漆黒に塗り変えることにする。

それでもエネルギーや時間はかかるけど、本質からは離れすぎてないし、戻ろうと思えばすぐに戻れる。

 

3の場合は、間違いなく私の眼が曇っていて、見透かせてなかったのだけど(直接話をして、「あれ?」と思い、本人に尋ねて確信できた。周囲の人もそういってたから多分真実)わざとそう見せてるパターンでした。

 

でも元々のキャラでもあるから、本人は苦しんでないみたい。むしろ楽しそうでしたね。

本来の自分とあまりにもかけ離れすぎていると、ギャップが辛くなったり、いざという時本来の姿に戻れなくなったりして辛いみたいな話があると思うんですけど、この場合はわりと素に近いのかな。

 

「なんでそんなことしてるんだろー」と思う自分がいないでもないけど、私にとっては直接話したことがリアルだから、そこでしか話せない。

 真面目な格好でまじめなことするのってふつうじゃん。あほみたいな恰好で、まじめなことする。のがかっこいいらしい。

 

本来の自分を理解しつつ、遠すぎない位置で自己ブランディングすると、うまくいきやすい。のかもしれない。

 

 

 

上の3つは生きている人間の話で、以下は漫画の話です。

 

1.アオハライドの双葉が馬淵に振られて女子っぽくなろうとするやつ 

アオハライドの8巻で、双葉が女子っぽく振る舞うシーン。

ここたまらなくすきです!自己ブランディングとは性質が異なるかもしれないけれど、近いとは思っていて、ぜひ知ってほしい部分!

セリフ引用します!

1.5キロ痩せて、メイクするようになって、大口で笑うのやめて、まるで女子みたいな仕草して。すっっっごいつかれる。女子ってたいへーん。私のやってることははたして合ってんのかな。なりたいキャラ演じるとかこんな事やってんの私だけなんじゃ…。自分に迷子なんだけど…。でもさ、みんな本当に『自分らしさ』って分かってんのかな?って思うんだけど

 

主人公が高校生ということもあり、「自分とは?」みたいな疑問を持ちやすい時期ではあるんですが、このシーンはいつ読んでもぐっときます。

共感できるし、納得できる。

 

もうひとつアニメか映画で思ついてたんだけど、ちょいド忘れしたので思い出したら書き足します!

 

あー。ぶりっ子も自己ブランディングだー。

まじかー。

賢いなあいつらー。

 

一時期、「ありのままで~いいのよ~♪」みたいな曲が流行ったけど、ありのままのままでいるのはもったいないです。

ちょっと背伸びしたら違う景色が見えるのに、ジャンプしたら一瞬とはいえ、海まで見えるかもしれないのに。

 

それは新たな武器になり得るものなのに。

 

 

 

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2/28(日)19:00~からラジオ出演するらしい、よーさんのブログです。

maeyo5296.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人から直接ほめられることについて。

ちょこぱく無事、終了いたしました~!(大分前に)

当初は、11・13日のみお手伝いの予定でしたが、急遽12日午後もお手伝いすることになり、合計3日間数学カフェの一員として参加しましたー!

 

やー、一言でいうと、「楽しかった!!!!!」です。

(第五腰椎分離症を患う腰は悲鳴をあげてましたが)

 

3日間。時間でいうと、約22時間アミュ広場に立ち、行き交う人々を見て思うところや、考えるところがたーくさんあったので、それについても書きますー!

アミュプラザに対する想いやら、こういう企画に対してやら。やらやら。

 

今回は、タイトル通り「人にほめられるとどうなるか」について、学生なり、女子なり、私なりに考えたことを書きますー!

 

Q.そもそもなぜ「ほめられること」について書くのか?

A.最近私自身がほめられることが多いからです!

 

ただ、ほめられているかどうかというのは、本人の主観に左右されることが往々にしてあると思っていて、言葉を発した本人はほめたつもりではなくても、受け取った人にとっては「ほめられた」と受け取る場合もあるので、なにをもって「ほめる」と定義するかはここでは明言しません。

 

私の場合は、私がほめられたと思えば、ほめられたことになるのです!!!

 

哲学的な話になる部分も多いので苦手な方は、

西日本初開催の「チョコレート博覧会」で、数学カフェのお手伝いをしたいと思った理由。 - ぼうけんの記録

を読んでいただけたら、泣いて喜びます。

(とある社会人「住宅関係の社長さん」におもしろいって言ってもらえました) 

 

最近の私がなにについてほめられたのかというと、このブログ「ぼうけんの記録」についてです。

 いただいた言葉としては、

・共感できる人多いと思うよ

・よく書かれてるよね

・よそからひっぱってきた言葉っぽくない

・最後まで読ませる文章だよね

・表現がおもしろいよね

・ブログがおもしろくってさ

・ブログ読んでるよ~ 

(多少の脚色はご愛嬌ということで)

 

やー、どれもうれしいっす!!!

ありがとうございまっす!

 

ブログを始める前は、facebookに長文を投稿していました。

あの頃は、コメントがついたり、「いいね!」がもらえることが嬉しくて、暇さえあれば自分のページを開いてコメントや「いいね!」の数ばかり数えていました。

はてなブログの場合もアクセス数が確認できるので、「今日はどれぐらいかな?」と軽い気持ちで確認して、「全然増えてないやんけえええ」と思ったり「10いったか」「お!50超えた!?」「100いきそう!」と程度の低いところで盛り上がったり、盛り下がったりしています。

 

数という指標で記事の良し悪しを決めるのもいいけれど、人から直接言われた方が数万億倍うれしいっす!!!

この先の人生で、数百、数千PV稼ごうが、この気持ちは変わらないのだと思います。

というか、変わってほしくない、大切にしたい自分の感情でもあります。

 

誰かに「ほめられる」と大半の人は、うれしいという感情が沸くはず!

うれしいのエネルギーは凄まじくて、私の場合は「もっとほめてもらお!」とますますがんばりたいと思うのです。

(そのわりに更新ペースが鬼のように遅いのは、よろこびを噛み締めているからだと思ってください。噛み締めすぎて味なくなるぐらいです。骨までしゃぶってます。)

 

22年間生きてきて自分でも薄々思っていて、ある日突然人に言われて「やっぱりそうか!」と自他共に認めることになったのが、「私って承認欲求が強めだ」ということです。

 

言いふらしてる「将来作家になりたい」も「誰かと同じ世界を共有したい」「自分のことを誰かに知ってもらいたい」というニーズを満たすための手段にしか過ぎないのかもしれません。

とはいえ、言ってる内により強く「なりたい!」となり、今では「なります、本出します私。」と思っています。

 

一時期は、「小説家になりたい」という夢を人に言いふらしまくった反動で、「ならなきゃ」と自分を追い込んでしまい、勝手に押しつぶされそうになっていた時期もありました。 

書けない、書こうともしない自分に不信感が募り、負の毎日(俗に言う闇期)を送っていたこともありました。

 

でも「小説家は自分の望む何かを手に入れるための手段のひとつかもしれない」と考えると、大分楽になりました。

夢を手放す瞬間でした。

「もうだめだ」「むいてないや」という感情からくる諦めではなくて、「ニーズを満たすための方法は小説家になる以外にもたくさんあるじゃん!」と考えるようになりました。

 

将来の夢に縛られない感覚。

より自由になれた感じです。

 

将来の夢って持ってる方が人生の指針になったり、進むべき道が定まりやすいので一見よさそうですが、それしか見えなくなると視野が狭まり、自分の可能性の目を自ら摘んでしまうことになりかねません。

 

でも「小説家」がひとつの手段だと気づくと、他のことに意識が飛ばせるようになりました。

ブログも飛ばした意識のひとつが形になったものです。

小説を書くこと、書き上げることだけが文章表現ではないこと、ニーズを満たす方法ではないことに気づき、身に刻み、実践しているのがこの「ぼうけんの記録」です。

 

だからこそ、「ほめられるとうれしい!!」のだと思います。

口にした人の真意として、ほめているつもりはなかったり、私のことを認めているつもりはなかったとしても、私は「ほめられた」「認められた」と変換して受け取ります。

 

そして、「ほめられるとうれしくてもっとがんばる」みたいな話が先にありましたが、ほめられると、ほめてくれた人の顔が浮かぶようになるんですよね。

「新しく記事書いたらあの人また読んでくれるかな」とか「あの人はこの記事を読んだらどう思うのかな」とか。

アクセス数を見て「この数字の1はあの人かもしれないな」などなど。

 

全然更新しない時もアクセス数だけは見るので、数字が一桁の時は「しまった!あの人もしかしてきてくれてたのかな」「新しい記事書いとけばよかったな、チクショー」とも思います。

 

ひとりよがりだった私の言葉達が、誰かの目に触れたことで、文章として認められる。これがとても嬉しいです。

 

言った人はただの感想のつもりだったかもしれないけど、それでもとてもうれしいです。

誰かの日常にお邪魔させてもらえて、ありがたいなと思います。

 

私も自分の日常に、いろんな人の言葉を住まわせて憧れを膨らませているので、それと比べると小さいことかもしれませんが、少しずつでも自分もそうなれているみたいでうれしいです。

 

たかが22歳のしょーーーーーーーもないブログですが、会った時に直接声をかけてくれる人がいることで、「ああ、私の文章って誰かの読み物になってるんだ」と実感できました。

 

きっとこの輪が大きくなった先に、私が見たい景色のひとつがあるのかも!

ないのかも!!あったらいいな!!!

 

まー、輪が大きくなったらほめられるだけじゃなくて、誹謗・中傷も現れるんでしょうが、それは仕方ない!

成長の途中でそういうのは出てくるものって本に書いてあったし!

 

対処はその時の自分に任せまっす!

 

この記事で伝えたかったのは、

・ほめられるとうれしくてもっと書こう!と思うので、うれしいやつもっとください!

・こういう思いもありつつブログ書いてます!

の2つでした!

 

あざっす!

今後ともよろしくお願いします!!

 

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見た目は大学生。

本当は20代後半のよーさんのブログもよろしくです!

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